「アウトドア」とは、都会生活者が遊びながら、己が自然の一部であったことを思い出すためにあると思う。自然の一部だからこそ、その力に助けられてここまで歩いてこれたことを忘れた時、人は滅びる。

かつて、我々のまわりには、無駄な空き地といわれた空間が多く存在した。海や河口には、潮干狩りを楽しんだ広大な干潟があった。町と町との間には、雑木、野草のしげった荒地が続き、川との間には、川よりも広い空間が自然の堤をなしていた。

今、かつて魚介類の産卵場、餌場であった浜は埋め立てられ、工場となり、そこを埋め立てるために、二度と再生の出来得ぬ山々がけずられ、林と草原であった荒地には、びっしりと団地が立ち並び、子供が遊び、野鳥が餌をついばみ、雛を育てた河川敷は、ジャリを取られ、道路にけずられ、土手はコンクリートで固められ、何も育まぬ、ただ汚水の流れる側溝と化した。

さまざまな人災、公害が発生し、無駄と呼ばれた空間は、更に消えつつある。空間を失った動物が狂い出す現象は、ねずみの実験でも明らかである。都会の犯罪増加の一面には、空間と生物の関係が人間の世界にまで波及しつつあるかのようだ。

自然を守るということは、囲いを作って人をそこから追い出すことではない。理屈ではなく、実際に、接し易い具体的な自然の一部である動植物にふれ、手に取り、食べて、その生態を観察し、生活に取り入れ、価値を知り、失ってしまった物の意味に気づくことから始まる。

逆説ではあるが、肉や毛皮を消費するだけの人間よりも、獣を狩り、それで生活を立てている狩人の方が、自然や動物に愛情を持っているものだ。松茸の味を知る者は、踏んで通ったり、その林を切り倒したりはしないのも同じである。

何が自然の生態系を破壊し、人々をそこへかりたてて行くかは、すでに明らかなことである。環境破壊は、終局的に政治の問題になるが、先ず、個々人の意識が基礎になるはずである。

食事の前に祈り、日を拝した古人らは、我々より、自然のありがたさと労働の価値を知っていたのだろう。

白土三平フィールド・ノート―土の味
(BE・PAL BOOKS)